
私は特別区職員として43年間働きました。
図書館、選挙管理委員会、住民票を扱う部署など、さまざまな職場を経験しました。
その中には、毎日のように残業し、休日も仕事のことを考えているような時期もありました。
そんな私が、あるとき「公害補償係」へ異動することになりました。
それまでの仕事とは、ずいぶん違う部署でした。
そして、そこで5年間働くことになったのです。
「もう少し忙しくない部署に行きたい」
公害補償係へ異動する前、私は戸籍や住民票を扱う部署にいました。
そこで担当したのは、日曜開庁の立ち上げです。
さらに、戸籍・住民基本台帳に関係する全国組織の事務局も担当しました。
その後、定額給付金の仕事まで加わりました。
これらを、およそ2年間のうちに経験しました。
それ以前には選挙管理委員会にも勤務していました。
選挙のときには、残業が月200時間を超えたこともあります。
さすがに、これだけ忙しい仕事が続くと、次の異動では少し違う仕事をしたいと思うようになりました。
人事異動のヒアリングでも、比較的落ち着いて仕事のできる部署を希望しました。
すると、異動の内示よりも前に、内々にある部署の話がありました。
「こんなところはどうか」
という話です。
役所の人事異動では、あまりないことだったと思います。
それほど忙しい部署ではないという話だったので、私も異動を受け入れることにしました。
ただ、実際にどんな仕事をするのかは、よく分かっていませんでした。
内示を受けて初めて知ったのが、公害補償係という部署でした。
公害補償係とは、どんな仕事なのか
かつて日本では、大気汚染や水質汚濁などの公害が大きな社会問題になりました。
私が異動した公害補償係は、その中でも大気汚染によって健康被害を受けた人たちに関係する仕事を担当していました。
公害による健康被害が認定されると、対象となる病気の医療費が給付されます。
病気の程度などによっては、補償給付もあります。
その認定や更新、医療費の支払いなどを扱う部署でした。
ただし、私が異動した頃には、すでに新規の認定は終了していました。
主な仕事は、それまでに認定された人たちの認定の更新や、医療費などに関する事務です。
当時、私の区で認定されていた人は、記憶では800人程度だったと思います。
それまでの仕事と比べると、対象となる人数が大きく違いました。
選挙管理委員会では、区内の有権者が対象です。
住民票を扱う部署では、区民全体や転入・転出する人たちが対象になります。
それに対して、公害補償係では約800人。
仕事の対象となる人たちが、ある程度限られていました。
異動して驚いたのは、法令集の薄さだった
役所では、人事異動をすると、まったく違う仕事を担当することが珍しくありません。
私も何度も経験しました。
新しい部署へ行くと、まず、その仕事に関係する法律や制度を覚えなければなりません。
選挙管理委員会では、分厚い法令集や判例集、東京都の規則などを使っていました。
住民票を扱う部署でも、総務省からの通知をまとめた分厚い冊子がいくつもありました。
ところが、公害補償係へ行ってみると、法令集がそれほど厚くありません。
ほかに事例集のようなものもありましたが、覚えなければならない内容の量が、それまでとはずいぶん違いました。
もちろん、初めて担当する仕事ですから、勉強は必要です。
ただ、最初に感じたのは、
「今までより、覚えることが少ないな」
ということでした。
そして、もう一つ大きな違いがありました。
基本的に残業がなかったのです。
係長の私も、封筒詰めをする
公害補償係の職員は、私を含めて5人でした。
小さな職場です。
認定の更新に関する事務のほか、医療機関や薬局から送られてくる診療報酬の請求書類を処理する仕事もありました。
また、医師や弁護士などが参加する認定関係の審査会や、医療費の審査に関する会議も担当していました。
私は係長という立場で異動しましたが、人数が少ないので、日常的な事務も一緒に行いました。
書類を封筒に入れる。
発送の準備をする。
そんな仕事もしました。
それまでの私は、どちらかというと、事業の立ち上げや管理業務を担当することが多かったと思います。
そのため、こうした日常の事務を職員と一緒に進めるのも、少し新鮮でした。
何より、仕事に追われるばかりではなく、落ち着いて周囲を見る時間ができました。
私の顔を見ると、笑顔になるおばあさん
公害補償係では、認定されている人たちとのやり取りは、郵便や電話が中心でした。
しかし、書類を直接持ってくる人もいました。
その中に、一人の高齢の女性がいました。
認定の更新などで、たびたび窓口にやって来る方でした。
この方は、職員によって対応がずいぶん違いました。
気に入らない職員が対応すると、怒鳴ることもありました。
ところが、私が出ていくと、
「おお!」
という感じで、ニコニコ笑ってくれるのです。
なぜ私には笑顔を見せてくれたのか、正確なところは分かりません。
ただ、私は係長として、少し離れたところから仕事全体を見ていました。
直接担当する職員とは違い、多少余裕を持って話を聞くことができたのかもしれません。
その方が来ると、私が話し相手になることもありました。
「高齢者住宅に入りたいんだけど」
あるとき、その女性が、公害補償とは別の相談をしてきました。
高齢者住宅のことでした。
確か、一人で暮らしていた方だったと思います。
私は話を聞きました。
ただ、高齢者住宅は私の担当ではありません。
そこで、担当する部署まで一緒に行き、職員につなぎました。
あとは、その部署で詳しい話をしてもらい、私は自分の職場へ戻りました。
私がしたことといえば、それだけです。
ところが、しばらくして、その女性がまた私のところへやって来ました。
そして、
「どうもありがとうございました。入所できることが決まりました」
と報告してくれたのです。
私も、ほっとしました。
公害補償係として直接解決したわけではありません。
ただ、話を聞き、担当部署につないだだけです。
それでも、その方にとっては、相談するきっかけになったのでしょう。
これまでの忙しい職場では、なかなか経験できなかった出来事でした。
忙しさだけが、公務員の仕事ではない
公害補償係へ異動したとき、私は正直なところ、少し落ち着いた部署で仕事をしたいと思っていました。
実際に、残業はほとんどありませんでした。
対象となる人数も、それまでの部署と比べれば少なく、仕事の進め方にも余裕がありました。
しかし、だからといって、何もすることがなかったわけではありません。
公害によって健康被害を受けた人たちの認定を更新する。
医療費の請求を処理する。
必要な給付を行う。
一人ひとりの生活に関係する仕事です。
そして、ときには担当外の相談を受けることもありました。
あの高齢の女性が、わざわざ入所の報告に来てくれたことは、今でも覚えています。
公務員の仕事は、事業を立ち上げたり、大勢の人を相手にしたりするものばかりではありません。
限られた人たちと、長い時間をかけて関わる仕事もあります。
私は公害補償係で5年間働きました。
それまでとは違う仕事の進め方や、住民との関わり方を経験した5年間でした。
そして今振り返ると、あの部署への異動は、長い公務員生活の中で、少し違った時間を過ごせた出来事だったと思います。

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